彩夢 1-7
「お客さん、お客さん!」
「う…ううん」
肩を叩かれ、目を開けるとそこはさっきまで呑んでいたBARのカウンターだった。いつの間にか寝てしまったのだろうか、状況が飲み込めずに達也は目を擦りながら声をかけられた方向へ首をやる。
「大丈夫ですか? すみません留守にしちゃって」
隣にいたのは女性だ。40代に手が届くぐらいだろうか、自分より年上だけど、その妖艶とも言える美しさに思わず目を奪われ言葉を無くした。
「すみません、あまりにも暇だったものだから、ちょっとだけ買出しに出かけちゃって。どれぐらい待たれました? 喉が渇いたでしょう」
「え…でもごちうになりましたよ」
留守にしていたと言っているので、話の筋からしてこの店の女性だろう。そういえば音は自分の妹がこの店のママだと言っていた。そして、確かに呑んだ記憶のあるグラスに目をやった。
「あら…もしかしてお兄ちゃん…」
「えっと、あなたが彩さんですか? で、お兄さんが音さん…」
「ええ、ご存知ですのね…そう、お兄ちゃんたら、また…私が鍵もかけないで出かけるもんだから心配したんだわ」
何だか奥歯に挟まったような物言いに達也は首を傾げた。
「何て申し上げたらいいのか…その兄の音ですが、とうの昔に亡くなっていましてね」
「!!!?」
「驚かれたでしょう。兄は、気まぐれで現れては、ここで人をもてなして行くんですのよ。でも、私は亡くなってからの兄に会った事が無いんですの」
「そんな」
考えてみれば、音が話していた内容に少しだけ違和感があったのを思い出す。そう、過去形で話し、心を見透かすような事をしていたのだ。今思うと気がつくが、普通に会話していたら流れてしまうヒントだ。
「気分悪くさせてしまったら申し訳ありません。あら、兄ったらまたあの焼酎開けて」
「その焼酎を飲んでから、俺はすっかり寝てしまったようで…」
「ここで兄に会った皆さんは必ずそう言われますわ。最も、寝たのか、お出かけになられたかはわかりませんけどね。でも兄が”夢”と言うんだから夢なんでしょうね」
彩はカウンターの中へ入ると、出っ放しになっていた焼酎を手にして「もう一杯いきます? もちろん御代は結構ですわ」と言った。
「いえ、やめておきます。ええと、今まで頂いた分のお支払いをお願いします」
「それも結構です。兄からの驕りでしょうから。良い夢は見られましたか?」
このBARで音に会った事がある人から、話は聞いているのだろう。達也は「ええ」と一言だけ答えて首を縦に振った。
「そうよかった。気分悪くされたのでは申し訳ないですから」
彩がボトルを棚に戻そうと手を伸ばすと、達也は思い返してその手を止めさせた。
「あの…やっぱりもう一杯頂けますか? その焼酎を」
「…? ええ、かしこまりました」
そのままお金を払わずに店を出てしまうのが申し訳ない気持ちもあったのだが、それ以上に”思い出”を”都合の良い思い出”にならなかった事への礼を音に言いたかったのだ。
「それと」
「はい?」
「グラスをもうひとつ頂けますか? もちろん同じ焼酎で」
「構いませんけど」
彩はコルク栓を捻ると、二つに並べたグラスへ同じだけ焼酎を注いで達也へと差し出す。達也は、一番初めに音が座っていた椅子の前に、そのグラスを置くと一人呟いた。
「まさかあなた自身が思い出だったなんてね。音さん、良い夢をありがとう。それも極上の彩夢をね」
達也はグラス同士を軽く合わせて乾杯をする。そしてゆっくりと酒を口へ含み、目を瞑った。まぶたの裏には、愛美と音が微笑んでいる絵が見えた気がした。
了
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