◆石の上◆ ―囀り石奇譚―

モドル | ススム | モクジ

  「2」 −妻と謎の男−  

「今帰ったぞ…」
戸を開けながら声を出してみたが、慌てて飛んできたのは女中頭だった。
―やはりでてこないか…
気持ちの何処かで本の少し期待していた。
今日帰宅すれば彼女は元に戻ってるんじゃないか…
が、やはりそれは甘い期待に終わった。
…あの日以来、帰宅した私を玄関口で迎える事もしなくなった妻。
今までは誰よりも早く、私の声を聞きつけ、
迎えに出て来てくれていたと言うのに。
下手な奉公人や女中などより、よく働いた妻。
これじゃぁ、奥様に申し訳ねぇ、と店の者達が
彼女の負担を軽くしようと率先して動き出す程だったのに…。
屋敷の中も妙にどんよりと薄暗く感じるのは、私の気が重い所為だろうか。
―否…違う…やはり何かがおかしい。
なんだろう?何がこんなに私の気持ちを苛立たせ、不安にさせ、
背骨の辺りを不快にさせるのだろう。胃の底の辺りが妙に泡だって仕方がない。

―…あぁ、そりゃ取ッ憑かれてるわね―

山高氏の言葉が急に甦ってにわかにゾッとした。
廊下の隅や天井に思わず視線を走らせ、肩をすくめる。
と、そこでなにやら気配を感じた。
渡り廊下の先の壁に いつのまにか妻がもたれかかって
コチラをじっと見据えていたのだ。
…またあの瞳だ。
黒い瞳が滑るように燃えている。あの恨んでいるかのような色…。
―…私がお前に何をしたって言うんだい?
問いかけようにも その凄まじさに呑まれて言葉にならない。
唇も色を失い、白い肌は以前にもまして青白く、
目の下に出来た隈で更に病的に見える。あの日以来髪も結っていない。

どれ位その場で見つめ合っただろう。
私は意を決して彼女に声を掛けようとした。
すると彼女は丸でそれを察知したかの様に素速く身を翻し、
屋敷の奥へ走り去って行ってしまった。

先刻まで彼女のいた場所へ立ってみると
酷い酒の匂いに混じって…何かもぅヒトツ…得体の知れない
胸の悪くなりそうな甘い匂いが漂っていた。

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不思議と悪夢が入り交ったような出来事があった日から六日が過ぎ、

何事もなく時間は流れていった。

何事もなく?

否、そうではナイ。

彼女は相変わらず昼から酒の匂いをさせて、イライラしている。
店の者達は彼女の存在に怯え、彼女を避け、日に日に活気を無くしていく。
私は何も出来ないまま、その問題から逃げるようにして仕事に没頭した。
―…そぅして現実から逃避しつづけた罰のように…七日目に事件は起きた。

店から最後の客が帰った。あきらかにひやかしの客だった。
散々色々なケチをつけたくていた様で、その為だけに
沢山の品物を引き出すハメになり、挙げ句、長逗留された。
…何だか最近こんな客がイヤに多い。
あまり腹立たしいので塩でも撒いてやろうかと考えた瞬間だった。
烏がけたたましく一声をあげた。
何かを呼び覚ますかの様な羽をばたつかせる音に、
不安ではち切れそうな胸を指し貫かれた気がして振り向いた。
外は燃えるように朱く染まっている。
夕暮れ時…彼女がおかしくなったのもこんな禍々しい紅の空の日だった。
気のせいだろうぅか?あの日から全てが狂ってしまった気がする。
私はいやぁな気分で店を閉めるのを任せて奥へ引っ込もうとした。
その時、「旦那様!旦那様!!」
いつも穏やかな年老いた番頭が血相を変えて飛んできた。
「どうした?そんなに慌てて。」
番頭は眉根に皺を寄せ、何度もまばたきした。
どうやら言いにくい出来事が起こったらしい。
まさか…又…妻か?私の胸中で破裂した筈の不安がまた渦を巻き始める。
‘そうであって欲しくない’という気持ちと
‘きっとそうなのであろう’という気持ちが
何度も入れ替わり立ち替わりして本の数秒の間で私の全身を支配した。
計らず深い溜息が漏れた。それを聴いた番頭が俯き・叫ぶように言った。
「奥様が…」
彼の声は悲痛であった。私はそれを聴いて天井を仰ぎ見て、
もう一度溜息をついた。覚悟はついた。
今度は何が起こった?
「奥様が…妖しい男を屋敷に連れて来られました…!」
「なんだと!?」

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その男は既に客間に居た。
私に伺いを立てるでもなく、案の定、妻の独断で事は運ばれたようだ。
私は酷く腹立たしい気持ちで、客間の障子を引き剥がず様に開けた。

客間に通され、妻の隣で偉そうに座っているその男は、確かに奇妙だった。

土気色の顔をしており痩せていて、ひどく病的だ。
なのに目だけが異様なギラギラとした光りを放っている。
長く伸ばした黒光りする髪は、強い夕日の差し込む
部屋の壁の影と同化してみえた。
その服装も、またけったいである。修験者の様な格好なのだ。
見た目だけでもその有様だったがその態度や雰囲気の奇妙さは
更にソレを上回った。
まず、客間へ私が入った時、肝を冷やしたのは
妻がその男の傍らに座っている事であった。
その上、随分親しそうである。…無論納得は行かなかったが、その男の
「この場所に私が座っているのは当然の事である。」とでも言わんばかりの
態度に閉口しながらも、余りにその堂々とした厚かましさに
自分自身がいつのまにか「そぅ、彼が此処に座っているのは当然である。」と
思い込まされそうになったのにはいささか閉口した。
―…気圧されるな…此処の主は私なのだから。
言葉には出さず、頭の中で呟いてから私は気を取り直して、口を開いた。
「私が、この店の主の一乃助で御座います。…本日はどの様なご用件で…?」
「お前さんがお言いよ…お言いったらサ!」
私のその問いかけに妻が肘で男をつつき、微笑しながら言った。
男は妻と一瞬見つめ合うとにやりといびつな笑顔を作る。
当然怒りはこみ上げてきたが、何が何なのかも解らないで
怒りだすワケにもいかず膝の上で拳を強く握りしめた。
「申し遅れましたな。私は‘九條’と申す者です。」
男は軽く頭を垂れ、一礼した。私もソレに習いながら問う。
「で…九條氏…本日は一体いかような御用件で拙宅へ?」
すると妻がそこで口を挟んできた。
「お前さん…」この‘お前さん’は私に向けられていると気が着くのに
数秒を要した。…今まで妻に‘旦那様’とは呼ばれても‘お前さん’なんて
呼ばれ方をされた事は一度だって無い。

―…私は段々恐ろしくなってきた。



妻が妻であって妻でない…。
その事実が時間を追う事に証明されていく…。

もぅこれ以上、妻の言葉を聞きたくない。
この男と妻の関係が何であるかも知らなくていい。
私のこの時の姿は恐らく端から見ていても悲惨であったろう。
顔色は血の気を失い、その場から逃げ出したい心持ちで一杯であった。

だが、世の中はそんなに甘いモノではない。
妻は‘九條’と名乗った男の袖口をくぃくぃと引っ張った。
九條が視線だけ彼女の方へ流す。彼女は膝で立つとサッと身を乗り出し
躰を男に近づけて手の平で口元を隠しながら耳打ちをした。

「なッ…!!!」
私は驚いて想わず声をあげた。
九條はそんな彼女の腰を引き寄せ、またあのいびつな笑いを浮かべこう言った。
「奥方たっての願いでしてな。」
「そぅなんだよ、お前さん。」
二人の躰は益々密着していく。堪えきれず私はとうとう怒鳴り声をあげた。
「一体全体お前達はなんなんだ!?この有様は…一体…!?」
「お前さぁん…実はねぇ、この方…九條様はね、数々の修行を積んだ
エラーイ霊媒師様なんですよぅ…でね、あたしが此処でずぅーっと調子が悪かったの…アレね」

ソコで彼女と目線が合う。
いつもの恨んでいる様な色の他に、嘲笑の色が浮かんでいた。

…が、その時、目の端に気になるものが映った。
彼女は左手の人差し指で結っていない髪の毛をしきりに弄んでいる。
その時、私の脳裏を一瞬何かが掠めた。
妻にこんなクセは無かった。

でも…でも以前…何処かで見た事が…

「お前さん!聞こえてるのかい!?」
そこで考えは中断された。彼女は微かに苛立っていたが、
九條にもたれかかると、落ち着いたようになる。
やはり不義の相手なのだろうか…混乱で頭の中が整理できない。

「話が途切れちまったよ…だからねぇ、お前さん、あたしが此処で具合が
悪かった理由…それはね…アンタの所為なんですってよぅ!」

予測していた言葉ではあったが、やはり実際耳にすると愕然とした。
だから、別の男に走ったって言うのか?…怒鳴ろうかと想ったが
呆れたのと、怒りと、驚きで声にならない。
が、次の言葉で更に私は凍りついた。
「なんでもね。アンタには悪い霊が憑いてるんだってサァ!…で、九條様が
こぅして駆け付けてくださった…ってそぅいうワケなのサ。」

私に 悪い霊が 憑いている!?
開いた口が塞がらないとは まさにこの事をいうんだろう…。

私が 悪霊に 取り憑かれている。

一体何処からそんな馬鹿げた発想が浮かぶんだ…。
その事だけを脳内で駆け巡らせながら二人を見比べた。

二人は相変わらず寄り添ったままで、愉快そうに笑っている。
笑う…と言うより嘲笑っている。ケラケラと女が声上げ…
フフッと喉の奥からくぐもった声を男が出している。

神経を逆撫でさせるその声は、既に私の中で「不快な音」でしかなかった。
甲高い方…女が出す「不快な音」が大きくなった。
と、ソコで私は正気に戻った。それは余りにも下品な笑い方だった。

この笑い方も何処かで聞き覚えがある。
声が違う…妻の声だと言うだけで、実際には妻の笑い方ではない。
何処だ?何処で聴いた?思い出せ…!!!

その時だった。
九條がイキナリ彼女を振り払うようにして立ち上がり
私の目の前へ立ったのである。

座っていたので気がつかなかったが、かなりの長身であった。
それだけでも充分威圧感はあったが猫背で軽く前のめりであったので
九條の暗くて重い影が私に覆い被さる格好になった。
それだけでも背筋が寒くなり躰が重くなった気がした。

九條は私を見下しながら言った。
「御主人…これはかなりの荒療治が必要ですぞ…」
「?」
九條は手に持っていた漆黒色の数珠を
自分の手っ甲を嵌めた右拳に巻き付けている。
「良いですかな…御主人。貴方の中の邪気は家人にも奉公人達にも
影響を及ぼすのですよ…ですから多少の荒療治には目をつぶり…堪えて頂くほか有りません。
…良いですか?貴方の為なのです。ひいては奥方やこの屋敷…御店の為になるのです。
良いですか?今すぐ始めます。今すぐね!!!!」

反論の余地はなかった。
バクン!と鈍く重い音がして、景色が歪んだ。
九條の右手が私の右頬を張り飛ばしたのだ。
一瞬気が遠くなりかけたが私はすぐに飛び起きた。

「何をするッ!?」
様子をそっと窺っていた店の者数人が血相を変えて私に駆け寄ってきた。

「旦那様に何しやぁがるッッ!!!」
店でも指折りの力自慢の青年が九條の前に立ちはだかり怒鳴った。
身長は九條よりも高い位であった。

…が、次の瞬間、皆、息を呑んだ。
九條は右の手の平で青年の左脇腹をしたたか張った…その途端、
青年は小さなうめき声を一つ発し、吹っ飛んで壁に思い切り体当たってしまった。

「だから言ったじゃない。」
妻が肩をすくめて鼻で笑う。
「凄い霊媒師だってサ。」

「旦那様、逃げて下さい!」
店の者3人とで九條を抑えにかかりながら番頭が叫んだ。

「し…しかし!」
店の者達を置いて逃げるワケにはイカナイ。
そぅいいかけたが、事態はそんな生やさしくナイ事にスグに気付かされた。

九條を私に近寄らせまいと必死に突進して行った4人が
「邪魔だッ!!」と言う九條の怒号とほぼ同時に…先程の若衆よろしく、
ある者は壁に、ある者は襖に吹っ飛ばされてしまったのである。

やはり通常では考えられない力であった。
柱にもたれかかってその様子を面白そうに眺めていた妻が首を傾げて鼻を鳴らした。

「ねぇ、もぅ解っただろぅ?横瀬の旦那ァ…。九條の旦那の凄さがさぁ。」
「横瀬の旦那?」
ソコで私と妻はハッとして顔を見合わせた。
…ただし、妻の方はしまったと言った顔色で、
私の方は以前「横瀬の旦那」と言う呼び方をした女の事を、一瞬想い出したからだった。

「お前…いや…そんなまさか…!!!」
私がそぅ言いかけると、妻の姿をした女は顔を歪めて苛立ち叫んだ。
明らかに動揺している様だった。
「九條の旦那!早く、早くこの男を片付けちまっとくれ!!!」
九條はその言葉にチッ、と小さく舌打ちすると、
もぅ一度シッカリと私の方を向き直り冷たい視線を投げかけた。

――容赦はしない。お前を始末する。――

口には出さなくても底冷えのする様な表情が、そぅ物語っていた。

――殺される…!――

心臓が早鐘の様に鳴り続け、五度目に強く響いた瞬間、

―殺されてたまるか…!!―

私は、踵を返して廊下へ飛びだした。

「クソッ!逃がすか!!」

九條は怒鳴って手を伸ばす。
私の襟首を九條の指が掠めた。
その指先はヒドク冷たかった。
胃の底から ずぅっ―…と恐怖が体中に広がる。

玄関を乱暴に開けて、外へ転がり出ると、外は暗闇が押し寄せていた。
禍々しい程の紅を残す最後の太陽が雲を泥炭の様に燃やしている。
無我夢中で走り続けた。

後ろで九條が何かを叫んでいる。
聞き取る余裕などなかった。

どれ位走り続けただろう。
九條の姿が本の少しだけ遠のいていた。
足には以前から多少、自信はあったが、年齢も年齢だ。

…息が苦しい。
喉の奥がヒィヒィと悲鳴を上げ始めた。
…その時、何かに躓いた。

物凄いイキオイで目の前の景色が回転する。
思い切り地面に左肩から落ちた。
鈍い痛ミが走ったが、そんな事お構いなしに私はスグに起きあがろうとした。
混乱した頭のままでは合ったが、得体の知れない恐怖から逃げ出そうという
気持ちだけは先走っていたからだ。

その時だ。

「何処へ行きやがった!」
遠くで九條が叫ぶのと、殆ど同時に、

「大丈夫かぃ?」
と、近くで誰かが囁く様な声がした。

聞き覚えのある声だった。

それを耳にした途端、何故か私の中に巣くっていた恐怖が
波が引いていくかの様に、すぅっと消えていった。

私は顔だけ上げて、その声の主を見上げ、名を叫んだ。

「山高さん!?」

「はぁい、お久しぶり、一乃助ちゃん。」

丸で子供に言い聞かせる様な口振りでそぅ言うと、
山高氏は、ヤケに嬉しそうに目を細めて笑った。
その笑顔が丸で花が咲いたように柔らかだったので、私の方が面喰らった。

ソコで一瞬冷静になって周囲をぐるりと見まわし、初めて気が付いた。
そうか、無意識のウチにあの空き地まで来ていたんだ…。

「ナニヤラ大変そうね。」
私が驚いていると、私の額に汗で貼り付いた髪の毛を
彼は人差し指でそっと払いのけながら言った。
やさしい仕草に、胃の奥が締め付けられるように切なくなった。

…“安心”…
この言葉が一番当てはまっていた。

迷子に成った時、親の元に戻れた子供の様に、
私は山高氏の足元で“安心”していた。
情けない話だが涙に襲われそうになった。

「あ…ッ!」
そこで私はフイに現実に引き戻された。
この人は、我が家の事とは何の関わり合いもナイ人だ…。
以前、「助けてあげる」とは言ってくれたし、
妙な力を持っている事も知ってはいるが

煙草ごときのお礼で、こんなワケの解らない…
我が家の恥とも言えるべき事に巻き込んだらイケナイ…。
私は上体を起こしながら、色々に考えを巡らせた。

「一体どうした?」
「いえッ…その…ナンデモありませ…」
言いかけた時であった。

「九條の旦那、いたよ!コッチ、コッチだ!!!」
妻の…姿をした女の声がした。

「しまった!」
このままでは山高氏を巻き込んでしまう。
秋の冷たい風で吹き出す汗がヒヤリとした。

「いやがったか、お前の旦那さん、大分手こずらせやがる。」
九條が壁の向こう側の影から苛立ちを隠そうともせず姿を表した。
「ナンデモナイって感じじゃぁないわねぇ。」
山高氏はそぅイイながら楽しそうに口端を歪めて微笑んだ。

私は心底焦った。
赤の他人の…山高さんを巻き込んではイケナイ。
立ち上がろうと上体を持ち上げ、
その場所…山高氏の傍から離れようとした…が
山高氏は空気を察したのか、私の肩にそっと手を置いて、ソレを制した。

「逃げるな。一之助。今から全てが解るから。」
「エッ!?」
「逃げたら何も解決しないよ?」

私は何事か解らないまま、山高氏の顔を見上げた。
九條は、そんなやりとりなぞおかまいナシに、
妻の姿をした女と共に空き地へずかずかと入り込んで来た…が、
何故か私達の少し手前で、突如足を止めた。

「 ? お前さん?一体どうしたんだぃ!?何故止まるのサ?」
妻の姿をした女が、そんな九條の様子を見て尋ねた。

「…何だ…奴は…?」
九條は顔をしかめながら私達の方をみて…
否、明らかに山高氏の方を凝視しながら喉の奥で唸る様に言った。
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