◆石の上◆ ―囀り石奇譚―

モドル | ススム | モクジ

  「1」 −山高帽の男−  

…町の一角の空き地に大きな石がある。此処最近、その石の上に
山高帽を被った背広の男があぐらをかいているのを見かけるようになった。

しかし、どうやらその姿が見えているのは私だけらしい。

何故それが解ったかというと、行商の折り連れていった供の者に告げたら、
彼は怪訝な顔をしてこう訴えた。
「旦那様、幾らあっしに学がナイからと言ってからかっちゃぁイケマセンや。
あっしにはそんな男はこれっぽっちも見えやしませんよ。」
その三日後、友人とソコを通りかかった時も、同じ質問をしたが
友人も不審そうな顔をすると、私の肩を叩きながら
「お前、疲れてるんじゃ無いのか?」と苦笑しただけであった。
道々をすれ違う人々も同様で、彼が空気でもあるかの如く、全くその姿を
気に止めないのである。
この日は見事な秋晴れであった。空が高い。
赤とんぼが無数に頭上を行き交っていた。と、その時「ぶぅん」と
微かな音を立てて竹とんぼが私の少し先の草むらに落下した。
「おじさん、それ、おれたちの竹とんぼだ。とっておくれよぅ。」
声を張り上げて、竹とんぼの持ち主らしき二人の子供が叫ぶ。
私は「ああ」と小さく呟いて、一歩足を伸ばすと
草むらの竹とんぼをつまみ上げる為にかがみこむ。
ソコで私はハッとした。
…かの大石の本の手前であった。
頭上に強い視線を感じて、情けない事に、身動きが取れなくなった。
暑くもナイのに脇の下に“じわり”と汗をかいた。
しかし、いつまでもかがんだままでいるワケにもいかないので、
意を決し、おそるおそる顔をあげてみると
案の定、石の上の男は私を凝視していた。
彼と間近で目が合い…心臓が飛び出る程驚いた。
彼の目は美しい琥珀のようだったからだ。
「呼んでるよ?」
高くも低くもない、安定した柔らかな声。
「はぁッ?」
情けないことに私はそれが彼の声だと気付くのに大分時間を要した。
彼は、右の口元をクッと上げて、更に言った。
「呼んでるよ、アンタを呼んでいるんじゃぁナイのかぃ?」
振り向くと、竹とんぼの主が手を差し出している。
「おじさん、たけとんぼ…」
そこでようやく理解して、私は無言のまま、彼等に竹とんぼを手渡した。
「ありがとよ、おじさん!」
子供達はそぅ言うと、竹とんぼの主導権を争いながらその場を離れた。
私は彼等に、今私の目の前に居るこの男の事を尋ねる勇気などとても無かった。
「あんた、あたしが見えるんだね。…ふぅん…。」
当然、この言葉に私の心臓は激しく脈打った。
やはり、他の者には見えないのか…?
イヤそのような事が有る筈はナイと言う気持ちに体中が
一瞬で支配されてしまった。しかし、そんな私の気持ちとは裏腹に
彼はシラッとした様子でこぅ言うのである。
「タバコ、煙草あるかい?…今切らしてんだ。」
「えッ…あぁッ・コレ…?」
言われるがままに私は朱で“Air Ship”と書かれた煙草の箱を袂から出し、
彼に差し出した。自分でも妙な気分だった。
普段の私ではとても考えられない行動だ。
「ハィ、あんがとさん。」
彼はソコから妙に慣れた手つきで一本だけ煙草を取りだすと、口に咥えて
自分の内ポケットに手を突っ込んでゴソゴソやり始めた。次に何事が起こるのか
眉をひそめてその様子を窺っていたら、彼は目の前で左手を広げ静止の姿勢を
取り、片目をつぶった。気障な仕草だったが別に嫌な気はしない。
「あァ、火はいいよ、あるから。」
そぅ言ってポケットから取り出されたマッチ箱は燕のマ−クが描かれていた。
よく見かけるデザインだ。たしか外国への輸出を目的にに作られたと言うメ−カ−のモノだ。
彼は中味を取りだし、タバコに火を付ける。
仕草がもたつかないせいか流れるようで綺麗だな…と素直に感じていると、
「アンタ、名は?」と、突然問いかけられた。彼は、すぅっと大きく煙を
吸いこみ、マッチの燃えかすを指先で弾き飛ばし、洒落た溜息の様に吸った煙を
吐き出しながら、同時に言葉を続けた。
「アンタ…数日前からあたしが見えていただろぅ?…そん時アンタ あたしを
指さして“山高がいる、山高が!”と叫んでいたねぇ。」
私は赤面した。…確かにそぅ言っていた。自分にしか見えないらしいと言う
「焦り」と、その場に居合わせた相手に解らせようとした「必死」が
ごちゃまぜになって、思わず一番目に付いた山高帽を指して
つぃそんな事を言っていたのだ。気分を害したのかと思い、返答に困っていると
彼は、意外な答えを返してきた。
「あたしゃね、その“山高”ってのが気に入っちまったのサ。これまでも
色々なあだ名を付けられて来たが、アンタの言ったソレが一番洒落ているよ。…
んで、あたしの名をアンタが呼ぶ時ゃそれでイイが、あたしがアンタを呼ぶ時
困っちまうだろ?…だから名前を教えておくれでないか、とまぁそんなワケだ。」
何度も言うようだが、いつもの私だったら決して自分の名を
赤の他人に安易に教える様な真似などしないだろう。
が、この日は本当に通常と勝手が違っていた。
思考回路が単純になったとでも言おうか…
一瞬で彼が実に近しい人物の様に思えてならなかったのだ。
もう少し分かりやすく言えば、「敵か味方か」・「馬が合う・合わぬ」を
時間をかけず見分けられた様な気分にさせられた…と言う感じだ。
冷静からほど遠い場所に感情を置いたまま、私は名を名乗った。
「一之助…横瀬一之助です。」
ふぅん。と、彼は唇を突きだすようにして、「いちのすけ・ねぇ」と復唱した。
私はその時、改めて冷静になって彼の顔に目をやった。
色白の童顔で、端正とまではいかないが
どちらかと言えば人好きのする顔立ちであった。
が…彼の琥珀色の目を見た途端、正気に戻ったとまではいかないにせよ、
私は急に、言い知れない不安を感じ始めたのである。

―何故、簡単に私はこの人を信用しようとしているのだ?

見ず知らずの人間にタバコまでねだり、その上、他の人間の目には見えてない事を
彼…「山高氏」本人も認めている事からして―…私は何かよからぬ事件に
巻き込まれてしまうのではナイかしら―…と言う予感に捕らわれ始めたからだ。
そわそわしながら次の話に成る前にその場を去ろうと、私は
「それじゃぁコレで…」と彼に背を向けた。

が…私は又ココでヒドク驚く事になる。

私は見えない何かに思い切りブチ当たった。
顔をしたたか打った為、一瞬何が起こったのか理解出来ず小刻みに二、三度
頭を揺すってみる。周囲を見回してみても、目を凝らしてみても、
私がぶつかった「何か」を確認出来ない。
はからず手を伸ばしてみた。
柔らかくも、硬くも、冷たくも、温かくもナイ…妙な感触が手の平に当たる。
「―壁…?」
透明の…空気で出来た壁…例えて言うならそんな感じである。
私が息を呑んでそぅヒトコト呟くのを聞いて、山高氏は言った。
「あら…御免なサイ?“結界をはったまま”だったワ…。」
行きは良い良い…帰りは怖い…て、アンタこの歌知ってる?と彼は笑った。
「結界!?」余り聞き慣れない言葉であると言う事と、その言葉の重さに
驚きを隠せず、私は彼の方を振り向きながら叫んだ。
「あ…あんた…アンタ一体!?」
「あたし?…あたしは…そぅねぇ…」
少し考え込むように言葉を途切るとフ―ッと長く煙を吹く。
「妖怪…」
ゆらり、と煙が小さな雲の形を作ってすぐ消えた。
聞き間違えたのかと思い、私は「はぁッ?」と聞き返した。
「いや、だから…言うなれば…“妖怪”って形容が一番解りやすいかな…と。」
当然私の脳内は、子供の頃、何処かで見聞きしたであろう
おどろおどろした絵巻物の中の妖怪達で埋め尽くされた。
記憶の奥から引っ張り出した妖怪達は余りにも目の前の彼とはかけ離れていた。
すると、彼は膝の上に寝かせていたステッキを手に取り、
くるりと優雅に持ち替え、柄の部分を私に指し向けた。
「って言うかアンタ…今、河童だの・ぬっへっほだの・唐傘・化け提灯だのを
想像してるだろぅ!?」
その声は今までとは違っていささか不機嫌そうである。
私は図星を指されたにも関わらず、ソレを隠そうともしないで、
頭をぼりぼり掻きながら「はぁ」と間の抜けた返事をした…次の瞬間、
彼はそのステッキの柄で私の頭をコツンと勢いよく小突いた。
当然、痛い。
「痛ッ!なッ…何するんですッ!」
「フン!まぁイイさ。勘弁してやる。」
ソレはコッチの台詞だよ…と即座に思ったが、口に出して言うと
又小突かれそうなので、言葉を呑み込んだ。
顔をしかめて殴られたトコロをさすっていると、彼…山高は楽しそうに
目を細め、またしても突拍子もナイ事を言ってきた。
当然、私は驚かされるハメになる。
「ね…それよりサ、アンタの悩み事…随分面白そぅだねぇ…」

息が止まるかと思った。

 私には妻が居る。名を「お英」…「英花」と言う。
彼女と最初に出逢ったのは、三年前の冬。東京の小さなカフェだった。
世間では、新型電話機がどこそこで設置されたと
話題になっていた様に記憶している。…私はと言うと、父が行商先で
事故に遭い亡くなった為、急遽跡目を継ぐ事となった。
父や祖父から色々の教えを承けてはいたモノの、余りに突然であったので
当然私の周辺は慌ただしくなった。小さいながらも三代続いた呉服店であったし、
私はこの仕事が大層好きであったので、私の代で終わらせない様必死で
飛び回っていた。悲しんでばかりはおられなかった。
そんな時、商談で使ったそのカフェで女給をしていた「お英」に出逢った。
物凄い美人と言うワケでは無かったが、他の女給と比べて、
何処か上品な感じのする人で、そういった場所で働くにはそぐわないな、と
言うのが正直な第一印象であった。
その取引先との商談が難を要した為、カフェへ何度も足を運ぶ形になって、
尚かつその相手先が時間に大変だらしがなかった為、
私が大分時間を待たされるハメになる事がしばしばあった。
…のが、災い転じてなんとやら…で次第に彼女とも顔見知りと
成ったはこびである。
一目惚れ、とまでは行かないにせよ、
彼女は多忙な私に本の一瞬安らぎを与える存在になっていた。
私達の仲は次第に親密になって行き、カフェ以外の場所で会うようになり、
数ヶ月後にはお互いの身の上を色々話す仲になっていた。
…そして彼女が元々は大家の娘で両親を早くに亡くした為、
こうして色々の苦労をしている事も知った。
私も早くに母親を亡くし、父も亡くしたばかりだった為、
彼女の心中は察するに余りあった。
が、同情心からとかそういう感情ではなく、
彼女の真正直で健気で純粋な人間性を心底愛おしく想う様になり…
付き合い初めて一年で結婚する事と相成った。
当然、親戚に反対する輩も多かったが、彼等と彼女が結婚するワケではナイ。
父母が亡くなった時分何もしてくれなかった人間が、
遺産目当てで騒ぎ立てるのを聞き入れる必要は何処にもない。
ソコは当然押し切った。
…結婚して我ヶ家に入った彼女は非常に良く働いてくれた。
御店の仕事も懸命に覚え、私の助けになろうと必死になってくれた。
どんなに小さくとも御店の女将となれば、奉公人達を手足のようにこき使って
当然と言う女の話は良く耳にしていたが、彼女にはそんな気配は微塵も無かった。
出会った殆どの人間に彼女は非常に愛されていた事は、贔屓目などではないように想う。

…そんな妻の様子が数日前からおかしくなった…。

以前カフェで働いていた頃の友人が、具合を悪くして起きられないでいるらしいから
家までお見舞いに行っても宜しいでしょうか?と彼女は私に言って来た。
…その友人…「お悦」の事は一応見知っていたので私は当然承知した。
この日も綺麗な秋晴れで、彼女は供の者を1人連れ、見舞いの品を抱え
人力車に乗って出かけていった。…そぅ言えば、彼女と一緒になって以来、
彼女が傍らにいないのはこの日が初めてであった。
他の旦那衆は、愛妾を抱える者も少なくなかったので
妻1人に固執する私を「実に情けない話だ」と鼻で笑う者も多かった。
が、私は心底彼女を大切に想っていたので例え誰になんと言われようと、
日中胸騒ぎがして落ち着いてはおられなかった。
…しかし、良くない勘と言うのは当たってしまうモノで、
日が傾きかけても彼女が帰って来る気配はなかった。
夕暮れ時には帰宅する…と約束したのに。秋の日は釣瓶落とし。
闇が次第に押し寄せて来るにつれ、私はそらそらと恐ろしくなって来た。
彼女は約束を破る様な婦人ではナイ。
幾ら久方振りに友人と会おうとは言ってもこんなに遅くなる筈など有り得ない。
何か事故にでも遭ったのではなかろうかと、最悪の事態が脳裏を掠め、
奉公人達と手分けして探しに出ようとした…その時…。
裏口から飛びだした私の足元に、夕日が長い影を届けてきた。

お英であった。

が、一目見て、異変に気が付いた。
…まず人力車に乗って帰って来なかったようだった。
その上一緒に出かけた供の少女が傍らにいない。
手荷物もナイ。…美しく結っていた髪も、着物も乱れている。
彼女の体は影に引きずられるようにしてゆらゆらと私に近寄ってきた。
影に顔を覆われていた為スグには気が付かなかったが、
彼女は私をじっと見つめていた。
普段はやさしい光りを宿している瞳は、滑るような苛立ちを放っている。
…丸で…恨まれている様だと私は思った。
妻であるのにぞっとしてしまった自分に戸惑いが隠せなかった。

その夜。彼女は酷くうなされた。高熱を出し、しきりに寒い、寒いと訴えるので
私は慌ててかかりつけの医者を呼びに行こうとしたが、どうしたワケか
彼女はソレを嫌った。「スグに治るわよ、こんなモノ!」と布団から手を伸ばし、
私の着物の裾を掴み叫んだ時、彼女であって彼女でナイ様である感覚に捕らわれ
益々不安になった。
…が、あくる朝には、彼女は本当に何事も無かったように
ケロリとして起きあがり、屋敷の中を丸で始めてきたとでも言わんばかりに
フラフラと歩き回った。
奉公人達にその事を聞かされ、驚きを隠せないまま屋敷を探していたら
中庭にある蔵の前に彼女が居るのを見つけた。
やはり様子がちょっとおかしかったので、そのまま離れた場所から
じっと様子を窺っていると、頑丈な黒い南蛮錠に人差し指で触れて、くすくすと
笑っているのである。にわかにぞっとして、たまらず
「お前、もぅ起きても大丈夫なのかぃ?」と私が背後から近寄っていって
イキナリ尋ねた。すると彼女は物凄い形相で振り返り、小さくチッと舌打ちをした。
やはり以前からはとても考えられない行為であった。
その上彼女は私を押しのけるようにしてその場を去っていった。
何の…ヒトコトの返答も、弁解もせずに。
 私にですらこの有様であったから、当然奉公人達への対応にも変化が現れた。
日中ふさぎ込み部屋に閉じこもる事が多くなった彼女は、
女中を遣いに出して酒を買いに行かせ、昼から浴びるほど酒を飲むようになった。
当然、「お身体に宜しくありません、もぅおよしに成った方が…」と、
親身に進言した者は酷く怒鳴られたり、あるいはぶたれたり、
その辺にあったモノを投げつけられたりしたと言う。
幸い怪我をしたりする者が居なかったのは救いだった。
しかもその時は状況の変化に驚いていた為、すぐに気がつかなかったのだが
どうやら、酒代は店から捻出されていたようである。
帳簿は私が付けている。妻の変化が現れた辺りから計算が合わなくなって来た。
このままでは示しが着かないと、彼女をさりげなく問いただしてみた所、
「盗んだ証拠なぞナイだろう!?」と酷く荒れ狂い家中の物を壊しだした。
その暴れ方たるや気でも違ったかと思われるイキオイで、男三人がかりでなければ
彼女を止める事ができなかった程だった。そんな有様であったから
私が閉口し…底なし沼の泥のような不安に呑み込まれたのは言うまでもない。

―…そうして今に至るのである。

私はこの苦しい胸中を、今の今まで他の誰にも…親友にですら話した事はなかった。
笑われると思ったからか、それとも呆れられると思ったからか、
はたまた世間体を何処かで気にしての事か…
もしかしたらその全部だったのかも知れない。
兎も角、私の中の色々が歯止めを掛けて、誰にも話せずにいたのだ。
だが、この自称「妖怪」の「山高」氏には不思議な引力がある。
彼に向かって言葉がどんどん引っ張られ、私の口からほとばしり出るのだ。
わだかまっていた胸の内の感情を吐き出すのは、とても心地良かった。
彼は目を閉じ、その私の言葉の数々を全身で受け止めている様だった。
「…丸で…何かに取り憑かれているとしか私には思えないのです。」
この考えを口にした時、私の心臓あたりで
引っ掛かっていた鋭い小骨が偶然抜き取れたような気分になった。
すると、山高氏「あぁ、そりゃあ…取ッ憑かれてるわねぇ」とサラッと言ってのけた。
小骨の抜けた私の心臓が、今度はその言葉に2〜3度激しく跳ね上がった。
「そ・そんなッ…何故お解りになります!?」
「だからぁ…先刻も言った様にあたしゃ妖怪なんだよぅ…。
大体今までの経緯をキチンと聴いてりゃぁ奥方の様子が尋常じゃぁ無い事も、よぉく解るよ。
ま、信じるも信じないも一之助、あんたの勝手だがね。
ただ、あんたはあたしにタバコを一本恵んでくれただろぅ?
それのお礼…て事で、あたしがあんたの頭を悩ませてる事を
解決してあげようじゃあナイの。…そぅ…この」
彼は一旦ソコで言葉を途切ると、かの大石を右の人差し指で指し示し、
左の手を顔の辺りまであげ、一差し指を立てて上空を指して力強くこぅ言った。
「石の上から一歩だって動かないでね!」
私は彼のその格好を見て、妖怪と言うよりは丸で観音像の様だと感じた。
そうして彼はニヤリと不敵に微笑むと短くなった煙草をすぅっと一気に喫んだ。
さも美味そうに。そして、唇を尖らせ、ふ―っと長く・長く煙を吐く。
まだ くすぶっている煙草の先の真っ赤な灰の奥から立ち昇る、薄青紫色の煙と、
先刻山高氏の赤い唇から吐き出された白灰色の煙とが、
目の前で絡み合い、やがてその曖昧な形を記憶に残して私の前から掻き消えた。
…と、その時。かの大石に鎮座していた筈の山高氏の姿も完全に消え失せていた。

―…白日夢!?

目の前で起きたあまりに奇妙な出来事に私は狼狽えた。
額に浮かんだ汗を拭い 気を落ち着かせようと、
周囲を見渡したが辺りは何事もなかった様に静まり返っている。
と、その時、煙草の幽かな残り香が、フと私の鼻先をかすめた。
恐る恐る大石に目をやると、ソコには
『今、己が目の前で起きた出来事は、まさしく事実である』と言わんばかりに
山高氏が吸ったであろう煙草の吸い殻が山高氏の代わりの様に横たわっていた。

真、人外の仕業であるとしか思われない…。

私は『不安と恐怖』と『好奇と興奮』の狭間で
ゆらゆらと魂が揺れた様な気がした。煙草はまだ完全に火が消えておらず、
まるで白糸の様に滑らかな煙を「縁を結ばないか?」と誘うかの様に
私に向けて立ち昇らせるのであった。

私は興奮冷めやらぬまま、周囲を見回した。
赤とんぼが音を立てて私の右の頬を掠めていく。
それと同時にふぃに子供の声が耳に届いた。
「おじさん、大丈夫かい?おじさん?」
声の方に踵を返してみると先刻の竹とんぼの子供達である。
この子達が此処にいると言う事は…!?
「あ!?…けッ…結界とか言うのはどうしたんだ!?」
私が急に声を張り上げ、普段、彼等とは無縁の…聞き覚えのナイであろう言葉を
耳にした為か子供達は驚いて私から2〜3歩躰を遠のけた。
私はそんな子供達を無視して腕を伸ばし、先刻跳ねとばされた
空気の壁…結界に向かっておそるおそる近づいてみた…が

ナイ。何処にもそんなモノはなくなっている。

暫くその場の中空を手の平でまさぐっていたが
己のやっている事のあやしさに急に気が付いた。我に返ると言うヤツだ。
バツが悪くなった私は、先程の子等の方へそっと目をやった。
当然目が合う。それを合図に子供達は腹を抱えて笑いだした。
私の様子が余りに奇妙で可笑しかったのだろう。

…私が脱兎の如く、その場から逃げ出したのは言うまでもない。
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