旭日昇天銀狐

第2章−1 終了から→開始へ

―世界を動かそうと思ったらまず、自分自身を動かすべきである。―

八月。夏の盛りに……猛暑。日本列島各地を異常な暑さが覆っていた。
時間は午前11時。武蔵国府孔雀区孔雀町のド真ん中で、“桐生ミサキ”は泥沼に嵌まり込んでいる。と、いっても文字通りの意味ではなく“精神的泥沼”だ。
ミサキは法王出版と言う、大手出版社の編集者である。だが、今はその肩書きすら危うくなりつつあった。何故そんな事態になっているのかと言うとミサキの所に回ってきた面倒な仕事が原因である。
この面倒なヤマはそもそも社長へ直々に入って来たモノだった。編集長から信頼の厚い編集者達が5名集められ、この話を聞かされた。

話を聞いた5人の腹の中は皆同じである。

――そんな無茶な。

ソレ程面倒な話しだった。

演歌界の大御所で、経済界にもその幅を利かせていると黒い噂の絶えない亀山梅蔵。
その亀山から自伝を出版したいと依頼があったと言う。それも半年以上も前からだ。

……が、亀山には自伝を書く程の文才も暇もない。

「ゴーストライターを探してくれ」

業界じゃ良くあるそんな話。
が、社長は何を思ったかその依頼をポロッと忘れていたと言うのだ。酒の席での四方山話しと軽く受け取って聞き流していたらしい。そうしたらつい先日、亀山の事務所側からバッサリ切り込まれた。

「当然先生のお願いしたのはもう見つかってますよね。一週間で正式な打ち合わせをしたいので、準備の方宜しくお願い申し上げます」

社長の血の気が一気に引いたのは言うまでもない。
それで、社長の一番信頼しているミサキの部の編集長に白羽の矢が立った。

「仕事の出来るお前らだから何とかなるだろう。誰かこのヤマとっかかってくれるヤツはいないか?」

皆仕事を山と抱えているのだから本当なら無理に決まってる。5人は腕を組んでうぅんと唸り声をあげた。その時だった。

「桐生、お前のトコの先生達が一番ゴーストライター多く抱えてるって話だったよな。
編集長、コイツですよ。俺たちが一番信頼してこの仕事任せられるのは」

ミサキを名指ししたのは村橋と言う入社当時から馬の合わない先輩。
それなら村橋さんが、と言うとした次の瞬間…編集長が深く考えもせず、

「うん、桐生、お前ならイケル!桐生、この仕事はお前に任せた!!」

……と安直な上に強引に決定してしまったのだ。たまったものではない。編集長に命令されたらもぅ辞退は無理だった。28歳でこの業界に転職し、この会社に勤めて丸8年。編集長の性格は知り尽くしている。


ようやく編集者としてもシッカリしはじめと周囲から認められ始めた矢先にマサカこんな面倒ごとを背負う羽目になろうとはと、ミサキは自分の間の悪さをこの数日呪い続けていた。

当然、自分が抱えている先生や、仲間内には恥じを忍んで全て当たってみた。無論結果は“惨敗”。発掘しようにも、先方が「一週間内に書ける人間を見つけて仕事させる」と急かして来てから既に5日……。完全なる八方塞りである。この仕事をしくじりでもしたら…ウッカリ首にされかねない状況だ。否、首は免れても降格は免れないだろう。
こうなったらマンションに帰らず出版社に缶詰して、犠牲になってくれそうな新人を残り2日間で血眼になって発掘作業する他ない。相手が相手なだけにヘタな人物を推薦できないし、その過程に考えが及ぶと堪らなくなった。
相談をもちかけた時、長年に及んで関係を築いてきたつもりだった作家から言われた一言が胸の中でぶわりと膨らんでドス黒い声で言った。

「桐生さん。アンタ、私を誰だと思ってるんだ?二度とそんな話、しないで頂きたい」

――うるせぇ。お前だって亀山と同じじゃねぇか。正体知ってるんだぞ!ゴースト使ってんのバラしてやろうか、この野郎!

言い返せなかった一言を胸の中で叫んでみたがスッキリなどしない。
思わず舌打ちをして、空を見上げると、サングラスを通して日差しが目を焼き付ける。
……痛い。涙が出てきた。情けなくてなのか、痛みからなのかもうミサキには解らない。
息が出来ない様な暑さの中で揺らめくアスファルトが、イキナリ科せられた重圧を殊更に増して行く様で妙に憎らしい。

「限界ってモンがあんだよ……!」

むわむわと体臭の籠もった湯気…すれ違う人々もすっかり茹ってぐったりしている。
それが益々自分を無気力にさせヤル気を削っていく。多分、どの人もそうなんだろう。
一刻の猶予もナイ現在、会社に戻らなければならかいのは解っていたがどうしても足が職場へ向かない。かといって何処かへ行くアテもない。ネットカフェにしけこんでも良かったが今は極力人に会いたくなかった。少しでもいいから人気のない場所へ行きたい。

「そうだ、あそこ」

ミサキはそう思いついて、周辺を見回す。そういえばこの先に木陰の多いストリートがあった筈だ。少しは癒されるかも知れない、そんな事を考えながら。


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