Wake an answer

第1章 葛葉麗一【矢坂医院2-5】

受付カウンターと、事務所とを通り過ぎ、扉をもう一枚開けると応接間のような場所についた。立派な革張りのソファにデザインテーブル。そして、その上には食事が用意されている。

「わぁ、旨そう…」
「そうね。そっち座って食べなさいな」
「ありがとうございます」

テーブルの上から漂ってくるいい香りに、思わず笑顔が零れる。

「せんせーい! 僕帰るねー」

席へ着こうとすると、甲高いが可愛らしい声(多分ああいうのをアニメ声っていうのかもしれない)が聞こえる。

「何よ、帰るの?」
「また日を改めて来るよ。パーニャがうるさいんだ。お客さんもごゆっくり。じゃあね!」

病院の自動ドアが開く音がして、顔の見えない女の子は帰って行ったようだ。

「全くせわしないんだから。シャイすぎるのも問題あるわね」
「今の子は?」
「えーっ……と、さっきの猫の飼い主で、このご飯を作ってくれたコよ。いつもはうちの若先生の奥さんで看護師のコとかいるんだけど、一昨日から旅行に出てるのよ。それでね、さっきのコが作りに来てくれたってわけ」
「そういえば、あにゃお、いつの間にかいなくなっちゃったんだ」
「あぁそうね。あの子ってば、挨拶ぐらいしていけばいいのに、いや…したのか」
「?」
「いいのよ、気にしないで。温かいうちに食べましょ」
「はい」

もう一度料理の全体を眺める。俺の頭の中は、この料理を作ってくれたという可愛らしい声の、線の細い、色白で長い黒髪が風になびく、そして可愛い黒猫をその胸に抱く女の子を妄想していた。

「(折角だから顔見たかったなー)」
「なにニヤニヤしてるのよ」
「いえ別に」
「フフ」

俺の言葉に矢坂が薄く笑った。その顔に恥ずかしくてむず痒くなるが、何となく自分がここに居ていい事を示してくれているような笑顔に見えて嬉しくなった。

+

「嘘…」
「嘘じゃこざいませんよ。今週、私は日曜出勤なんですから」

ご飯を食べ終わってから、矢坂にタクシーを呼んでもらい、帰り道の道中運転手さんからの話で今日が日曜日だと知った。
麗一が例のたまり場へ行ったのは間違いなく金曜日だった。学校から帰る時に丈一郎に『俺は日曜まで三連ちゃんでバイトだかんよー』という愚痴を聞いたのだから間違いない。
とすると、麗一は日曜の昼まで何処で何をしていたのだろうかと考えるが記憶はスッパリ途切れていて、考えても警備員につかまった後からの記憶が皆無だった。それと同時に背筋に寒いものを感じる。

「ここら辺でよろしいですか?」

運転手の声に麗一は我に返る。
気がついたら、鹿山区の自宅もとい施設の前にいた。

「あ、は…はい。いくらですか?」

財布をゴソゴソとする俺に運転手は口を挟む。

「後で別の方からお支払いして頂く事になっておりますので、結構ですよ」
「別の方って…」

まただ。
また誰か麗一のために金を支払う人がいる。一体誰なのだろうか? どうして麗一がそんなに金を支払ってもらわなければならないのか…。わからない。

「忘れ物はございませんね。それでは…」
「あの!」
「はい?」
「あの…支払ってくれる方ってどなたなんですか?運転手さんは知っているんでしょ?」

ここで誰かに聞かなかったら、ずっとわからなくなってしまう気がして、麗一は思い切って尋ねてみた。それに金を払ってもらうっていうのは今まで経験した事ないし、庶民の麗一からしたらその行為は“恐ろしいもの”としか感じないからだ。

「うーん…」
「言いにくいかもしれないけど、俺、何か色んなことがよくわかんなくって」
「そうですねぇ…。藍然家というのはご存知ですか?」
「あい…ぜん…け?」

仰々しい名前にオウム返しで応える。そりゃ麗一も随分解りづらい苗字で、昔から色々と言われてきたけど、それにしても芸名以外に存在しているものだろうかと考える。

「ご存知でないですか。本家は京都にあるらしいんですけどね。ずいぶんと栄えているみたいですよ」
「名前なんですか?」
「ええ、親会社から子会社、関連会社まで親兄弟で一族経営をしているものだから、社名をそのまま“株式会社 藍然家”にしたらしいですよ」

バックミラー越に話してくれる運転手の顔を覗き見る。運転手はフイと視線を逸らした。いかにも“我関せず”といった感じだ。

「わかりました。俺、そろそろ行きます。教えてくれてありがとうございました」
「ええ、お気をつけて」

車の扉が閉められて、タクシーが走り出す。運転手が残した『お気をつけて』というコト場がやけに耳に残った。気をつけるも何も麗一は自宅前にいるからだ。何を気をつけろと言うのか─。
自分のわからない所で何かが起こっている。それが何かはわからないが、彼の持ち前の鋭い勘は悪い事も良い事も両方を示唆し、静かに事は近づいていた。


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