◆輪〈サ-クル〉から逃げられない◆ ―短編―

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 ―4― 

と、本の一瞬、俺の右手に余裕が出来た。
俺はすかさず、その手を後方に回し、必死に空中を泳がせる。と、硬く、ひやりとした感触の
「何か」が俺の薬指に触れた。俺はその「何か」をひっつかむと、
そのまま思い切り反動をつけ、大きく、振りかぶった。
その瞬間、目の前にある、俺そっくりの男の顔が恐怖に引きつった。
「やめ…」
奴の唇はそう呟くのを、目で見て取ったがもぅ止まらない。

―ゴッ…

鈍い音が腕の神経を伝って、五感の全てに響き渡ってくる。
目の前にいるそいつがヘナヘナと崩れていく。

―ドサッ

床に仰向けに倒れたそいつは、痙攣し始めた。
大理石の床にじわじわと赤黒い水溜りが広がっていく。
俺の呼吸はどんどん荒くなって、部屋中にそのハァハァと言う音が響き渡った。

右手が少しずつ重さを感じ始めると、やがてそれがとんでもない重さだったと気付いた。
俺の指は重さに耐えられず、それを重力のなすがままに手からスルリと逃がしてやる。

指輪と同じ色をした、置き時計が、床にゴトリと音を立てて落下し、
一度だけゴトン…とバウンドすると、後はその身を静かに横たえた。

嫌な汗が体中から噴出す。

額から滲み出た脂汗を、左手でグイッと拭った…


その時、俺の体が自分の意志とは無関係にビクリと震えた。

このたった一瞬の動作に全身が一気に凍りつく。

額を 左手で拭った時の状況がスローモーションでよみがえる。

チラリと見えた手の甲…指…薬指…。
額に当たる感触に…ゴツゴツとした金属の「それ」を感じなかったのだ…。

俺の心臓が異常なほど跳ねては落ち、跳ねては落ちを繰り返す。
俺は震えながらギシギシと左手の甲を自分の胸の辺りまで上げた…。

左の薬指に…あるはずのモノが…ナイ。

指輪が…どこにも…ナイ!!!

俺の腹の中がスゥ…と冷たくなっていく。
と、同時に今度は気持ちの悪い汗がドッと噴出してきた。
先刻まであったのに。
間違いなくこいつと取り合いをしていた。

俺は周囲を見渡した。


何もナイ。


俺は、床に這いつくばって、何処かへ転がって行ってしまってないか
必死にその姿を追い求めた。
目の前に転がる俺の体もどかし、体中をくまなく探した。
だがポケットの中には薄汚れた例の紙切れが一枚入っているだけで
やはりどこにも、ない。
この部屋も相変らずがらんどうだ…。
時計は壊れてしまったのか、微かな音すらたてなくなった。
自分自身の息遣いだけしか聞こえない。

バカな。
俺はった。
こんな…くだらない事で、あの女との結婚をフイにしてたまるものか。
俺は、全てを手に入れるんだ。
女も、地位も、名誉も、金も…全て、全て手に入れるんだ。
人、一人殺したからなんだ。
指輪ヒトツ失くしたからなんだ。

そういってゲラゲラと高笑いした。
それと同時に、
―その指輪を失くしたら何もかも全て終わりよ…
と言う女の呪いめいた言葉が俺を支配した。
すると途端に腹のソコからじんわりと悲しみとも恐怖ともつかない何かが溢れ出して来て、
涙がボロボロと頬を伝った。
俺は膝から屑折れて床にはいつくばっておいおいと泣いた。

無一文の殺人鬼…
このままでは俺はそうなってしまう。

そんなのはごめんだ…

その時俺の脳裏で何かが閃光を放つ様にビカリと閃いた。

そうだ…この未来から来たって言う俺が、使った方法で数日前に戻るんだ…。
そうして過去の俺にキチンと状況を説明して
指輪を過去の俺から預かろう…それで元の時間…すなわち今日に戻って来れば
無事結婚式を迎えられるんだ…あの莫大な財産を俺のモノにする為には…
それしかないんだ。
俺が俺を殺さない様にしなければ。
早く行動を起こさなければ。
時間がない…。

俺はのろのろと立ち上がると頭から血を流して空を仰ぎ見たままカッと目を開けて
倒れるもう一人の俺のポケットを震える手で探った。
かさりと乾いた音ともに一枚の薄茶色に汚れた紙が現れる。
広げてどす黒い色のインクで描かれた魔法陣らしき模様が目に飛び込んできた。

それと同時に辺り一面が、一瞬にして血の様な赤黒い闇に包まれた。
驚いて目を堅く閉じた…が、すぐに光を瞼の上に感じてそっと目を開けた。
そこには見慣れた景色があった。
公園の木立が風に揺らめいている。
ゆっくり目線を右にそらすと、離れた所に見慣れた二人がいる。
あれは…彼女と…俺だ…!!
彼女がそっと何かを呟いている。
彼女の言葉が終わると同時にもう一人の俺がゆっくりうなずいている。

なんてこった…俺は・彼女にプロポーズされた日…
一ヶ月前に戻っちまったのか!!
…じゃぁこれから俺は一ヶ月間、彼女との結婚前に俺になんとか
コンタクトを取らなければならないのか…
嗚呼…早く…何とかしなければ…一刻も早く…

でもまてよ…あの指輪を渡されるのは確か結婚五日前だった…

じゃぁ…一ヶ月…俺は俺の後を
ついて回らなきゃならないのか…

なんてこった…

なんてこった…

あ…そういえば…調度プロポーズを受けてからだ…
ずっと誰かにつけられている感じがしていたのは…

じゃぁあの気配は…

お…俺自身…!

心臓が口から飛出そうな程に激しく体中を揺さぶる。
息がマトモに出来ない。
刺す様な真夏の太陽のせいか、視界が何度も歪み、
立っている事が出来ず、その場にくずおれた。

結末はっている。

…仰向けに倒れ、額から血を流し、目を剥き出した不気味な自分自身の姿が
目の奥でぐるぐる回転し、全身に震えを走らせた。
眼球の水晶体が、熱で溶け出したかの様に涙が知らない内に溢れ出して来た。
気持ちの悪いぬるさが頬を伝うのを感じたその時。
私の脳裏にヒトツの思惑が頭をもたげた。

いや…もしかしたら…
運命を変えられるかも知れない。

ベンチの過去の私が、彼女と微笑み合いながら立ち上がり、寄り添いながら歩き出した。

ああ…そうだ。


私もゆっくりと立ち上がると、過去の自分を追い始めた。

そうだったよな。

運命は自分の手で変えるもの。

変えて見せるさ。

私の顔にようやく笑みが戻った。

蝉が、異常な暑さを讃える様に、熱気を孕んで揺らめく大気に向かって
歌声を張り上げている。

きっと私は生き残り、幸福を手に入れる。

そうだ

お前を

殺してでもな…。

夏の光を無理矢理に吸いこんで膨張し、
いぶし銀にギラギラと輝くスファルトが、
あの日失くしてしまった婚約指輪の様に…
あの時自分自身に振り下ろした、時計の様に…
鈍い銀色に輝いてどこまでも続いていた…

どこまでも…
どこまでも…
どこまでも…

―――…
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